水平な天秤上のブログ

童貞の部屋。現在、ラノベの感想しか思いついていない。

独り言「何故、人は他人を殺してはならないのか。」

 それはただの純粋な問いか。それとも究極的に人が突き詰めた先にある何かを知る為に口から出た問いか。はたまた、人が人でなくなった時に問う問いか。
 そう問いたのは恐らく誰でもいいだろう。それがそもそもの人間の、人としての原罪であっても誰もとがめることはないだろう。まぁ、原罪と言ったから実を木から取り神に反逆したその罪ではないにしろ。人がその口から出されるのが少しばかりでもはばかられるのであれば似たようなものかとも思った。

 人はいつしかこの問いにいつしか行き着く。それがいつかは知らない。無邪気な子供に聞かれるからか?それともシリアルキラーの口から問われたからか?大人がふと行き詰まった時に誰でなく自分に問うのか?それが誰であれこの問いにいつしか行き着く。

「何故人は他人を殺してはならないのか。」

 そもそもの人が【人本来の存在】として全てを考えると法もなく、ただそこに人間が存在しているだけの存在であれば。人と人がそこにただ存在しているだけの状態で知識を詰め込まず成り立つ事物だけを理解し「目の前の人を殺せ」と言われれば躊躇なく殺すだろう。
 では何故他人を殺してはならないかという問いが出てくるのか?

 それはもちろん我々が「人を殺してはならない」という知識を持っているからだ。それ以前の問題として「人を殺す」という行動としての状態を知っているからだ。さらに突き詰めれば「殺す」という状態を、「死を迎える」という状況を理解することが出来るからだ。
 その状態を知っていなければ「死ぬ」とは何か。「殺す」とは何か。更には「人を殺すというのはどういうことか?」という問いには行き着かないだろう。


 では、本題である。「何故人は他人を殺してはならないのか。」

 まずは結論から言おう。結論としては「そこに理由はないが殺してはいけないとした方が全てにおいて都合がいいからだ。」


 そもそも「人が他人を殺してはならない理由」誰かが説明をするときに法律を出してくることは楽であろう。確かに法を出せばそもそもの理論としてはしてはいけない、人がこの日本という国にいる以上最低限度守っている秩序の塊を崩すという不均衡のような事をするな。それで一定の人は理解する。(それで理解出来るのであれば相当頭が弱いとは思うが。)

 「えー法律なんて破っても法律によって罰せられるだけじゃん。」

 と、考える人もいるだろう。というよりか人が考えを逃げさせるならそこだろう。法律を無視すればいいということだ。
 それもまた然り。人間が定めたモノで唯一逆らえないのは「時間」だけであり倫理等を気にしなければ法律など簡単に逆らえることが出来る。用は見つからなければ犯罪として公に成立しないからだ。犯罪を犯した時点で犯罪ではあるが言うなれば【罰せられるだけ】ということだ。
 それは根本的に人が他人を殺してはいけないという問いの答えにならないのだ。殺す。という事の歯止めが法律。という事は結びつかないのである。「もし法律がなければ?」という事を考えれば無法律状態を考えれば楽であり、例えば戦争中など無法であろう。戦争中においてはあまたの無関係な人たちが虐殺された例などさがせばいくらでもある。それに探さなくとも問題視されることは多いだろう。最近…といっても50年くらい前だがベトナム戦争の時に一般の村人を虐殺して問題になったりもしていた。

 無法がなければ虐殺が起きる。では法があれば?と考えてみても日本で考えてみれば詳細な明言は避けるが光市の母子殺害、有名なコンクリート事件、名古屋アベック。その理由は全て法律にとめられる事もなく「ただ流れで殺した。」というのがほとんどである。事件の詳細は凄惨なモノが多く殺害された被害者が「もう殺して」と嘆願する事件も多数あるほどだ。それに理由などなく「ばれるのが怖くて殺した。」など結局なところそんなバレるのが怖いという理由で殺す人もいるくらいなのに法律で立法を決めたところで無駄な事は言わずもがな理解出来るであろう。
 要は「立法に関係なく殺人をしてはいけないという理解をどう得ることが出来るのか」ということに尽きる。

 そんなことを書いても馬鹿は強姦した後にバレたくないから殺したともう手に負えない状態なので個人的にはそんな馬鹿の殺人をとめる事は根本的に不可能であると言いたい


 まず、私が止めたいと思っているのは「少しでも理解が及ぶ人間であるが追い詰められてテンパってもう殺す以外の選択肢が頭にない人」のように少しでも長くじっくり説明すれば理解が及ぶような人だ。



 前提条件として私は人の「正義」という部分に重きをおいている。
 その「正義」はナニモノにも侵略されることはない。浸食してはいけない深部に存在する「存在の意義」「存在の定義」のようなモノであると考えている。それは「正義≠大義」である。正義は大義と同義ではない。

 「正義」は「正義」であり「大義」は「大義」のようなものだ。それはそれ単体で成り立っていると定義していると思って貰いたい。ここでもう既に一般的な事柄から外れている気がするがそれも追々わかってくると思う。

 そもそも、「正義」は何故「大義」と同等ではないのか。それはそう考えている時点で既に私とは考えている事柄、見ている世界が間違っているということだ。どちらが「大義」として正しいのか。それは今はわからない。だが、どちらも違う世界を見て、どちらも違う考え方をするという事が立証されたということだ。
 まぁ、いい。このような事で文字数を取られるわけにもいかないしこのような事を論議したかったわけでもない。

 簡単な事を言おう。「正義」は自身に存在する【ナニモノにも譲れない感覚、感情、及びそれに準じたモノ】であり「大義」は【一般的に考えてそれが正しいという結論を迎えるモノ】である。それは元々の意味に含まれる「意味」から少々ひねって出したものだ。
 つまり、「正義」は【自分】、「大義」は【社会】というわけだ。
 「大義」は常に社会としての「大義」であり大義名分を掲げる、大義名分に立つという引用のように公としての行動でありそれは酷く簡略化されば大多数=多数決をすればそれが正しいとするような考えだ。それすなわち「正義」とならない事は聡明な人ならすぐにわかるはずだ。



 それを少し頭の片隅に残しながら本題に戻そう。

「何故人は他人を殺してはならないのか。」

 一段階目の結論。と言った方がいい段階的に踏んだ現在の第一結論として私がまず言いたいことは「人は個々の正義の為に生きるが全体は大義の為に生きる。それ故に他人の正義を奪えば大義の為にならないから。」ということである。

 人間というのは酷く傲慢で無法を好むのは性<さが>と読むべきか。それとも<しょう>とも読むべきか。誰もわからないが「してはいけない」という事に対し「したい」という欲求がわくのは当然だ。だが、その度合いが他人の正義まで侵食すればするほど忌避し避ける傾向にあるのは当然だ。そしてそれが殺人だとしても。だが、前記の通り人間どこかに「したい」という欲求があるのかもしれないのはまた当然のことでありそこでバランスを保たなければ【全体の大義】に向かう事は出来ないのだ。

 最終的に人間という社会が目指す場所は「全ての人が幸せに感じる社会」それはユートピアと既に存在してはいけないような感覚ではあるが、「全ての人」というところにそう感じる人は引っかかっているのが主だ。「全て」はありえないと。だからこその「ユートピア」であるのだが「全て」がありあり得ないとしたのならどんな社会を目指すべきか。それは「おおよそほとんどの人が幸せに感じる社会。」それが「全体の大義」としての終着点であり単純な言い換えで言えば「多数決で幸せな社会」。それが何も望まずに全て望んだ社会という結果としては最高と評価される結論に至ることが出来る。

 そう。【全体の大義】だ。振りかざすのは?【個の正義】だ。

 さて、【個の正義】は一人一人別々でありそれはピースとなりそれが集まり【全体の正義】と化す、そして化かす。【全体の正義】≒【全体の大義】となることを目標としている現在の社会においてそのピースがかけた時点で「人が可能な限り考えうる最大の正義」はかけている状態だというのはわかるだろう。それは未来から見れば「運命」であるが過去から見れば「必然」だ。
 それが、殺人。「必然的に人が可能な限り考えうる最大の正義を欠落させる方法」が殺人だ。

 そんな事がまかり通ればその【全体の正義】は【全体の大義】に近づくことは不可能である。【全体の正義】に加わらなかった殺人の被害者というのはもしかしたら正義≠大義であったかもしれない。だが、殺した時点でその可能性というのは全て潰えて定義である「おおよそほとんどの人が望む幸せな社会」に組み込まれることがなかったピースと結論付けられてしまう。
 その行為によって組み込まれなかった一つの「可能性」が潰える。だから人が他人を殺すことはしてはならない……。




 というのはまぁ私が言いたいことの一つでもあるが全てではない。結論は先に提示しているハズだ。


 「そこに理由はないが殺してはいけないとした方が全てにおいて都合がいいからだ。」、と。

 【都合がいい】とはどういうことか。それは「人を殺さないとしたほうが都合がいい」ということでありひいては「理由はないが人を殺さないほうが都合がいい」からだ。

 道徳的な観点から照らし合わせても自分自身のエゴと釣り合わせてもそれが正しい。

 「人が可能な限り最大限の正義=大義を尊重出来る国」。それが人類が目指す場所であるのが【大義】だ。それは常識というより当たり前だ。【大義】の定義は大多数の人が考える義だ。それこそどれだけ今の自分がおかしな事を考えてもそれが未来においては当たり前であればそれは【大義】だ。例えばそう昔を考える事もなく昭和に相当すれば「運動中に水分補給をしない」というのは大義でありそれが当たり前であった。が、現在において「運動中に水分補給をしない」というのが当たり前…なんていう人はどう考えても少数派であるのは自明の理である。で、あれば「運動中に水分補給をする」という事象こそが【大義】であり今と昔では違う。だが共通して言える事は「その大義という尺度が測られる時において多数を締める考えが基本的に【大義】となる」のはもうこれ以上詳細な説明を加えなくとも理解できるであろう。

 ならば。【大義】というのはいつの時代も常に【都合がいい事象】を集めた事象とも言える。そして第一の結論としてまとめたそのおおよそ人が幸せと願う社会を目指す為に組み込まれないというのは非常に『都合が悪い』。
 そう、『都合がいい社会』を目指す為には『都合がいい事象』を集めるのが手っ取り早い。そしてその手っ取り早い方法に殺人はその真逆の方法となってしまう。だからこそ人を殺してはいけない。というのだ。




 こう、説明をつらつらと書き連ねて。ふと立ち止まった時にこの考えはある一つの考え=逃げ道によって全て崩される事も予期される。それは何かわかるだろうか。

 それは「殺すという事柄が突発的でもなくただ処刑の為の方法の為に殺人を犯した」ということだ。

 わかりにくい?わかりやすいように言おう。

 死刑だ。




 この社会に死刑がある以上、それが何度も使用している【逃げ道】となる。別に私は死刑を廃止しようなんて活動をする気はない。諦念を貫き何があろうとも口を出さないのであればただ流れる運命に身を任せる気なのだが…っとまたしても脱線をしてしまった。と、【逃げ道】と言ったが何が逃げ道か。それは思考回路の【逃げ道】思考回路の【可能性】。【逃げ道】は【可能性】となり「考える人」を翻弄し続ける。

 結局。「人が他人を殺してはならない理由」についてここの『最終的な死刑を踏まえて』なんて答えが出るハズもない。そもそもの理論として答えが出ないと有名な問いだ。だが、それを思考した結果自分に納得した結論を一つ持つ必要も大事なのかもしれない。




「私が私であるように。私が私でいられるように。そして、私が明日の私に少しでも勝れるように。願わくば人が他人の正義を奪わぬように。」



 くだらない独り言の延長線上 ~完~